-気が付けば妻・妹・姉の介護をすることが自分自身の病後のリハビリとなっていました。そして皆を見送り、このホームに入居して楽しみも見つけ出すことができました。
戦前からずっと東京にお住まいだった小川さんは、元郵政省の職員だった事もあり昭和の高度成長期を駆け上ってきた企業戦士の一人だともいえるでしょう。労働組合との闘争あり、郵便局そのものの改革ありと、いくつかの要所に配属されながら重要な仕事をこなし、家庭では家長の役割を果たし、時代の変遷を生き抜いてこられました。そして、穏やかな現在の生活をとても優しく和やかに語ってくださいました。
郵便局員になったのは、戦後、自宅のあった麻布台からの通学の途中で日比谷線に乗り換えるんですよ。そこにたまたま中央郵便局があってね、母に相談したりして、入局しました。軍人だった父は早くにガンで亡くなりましたから、母と私が中心となって家族の面倒をみるのが自然のなりゆきできした。
75歳の頃、私自身が腎臓ガンを患いまして摘出手術を受けたのですが、その回復もままならない内に妹の病が悪化し介護することになりました。その1年前の平成18年には妻をクモ膜下出血で亡くしていましたから、立て続けに病人がいたわけです。19年に妹を亡くし、妹の初盆の頃には今度は姉が患い、やはり介護することになったんです。そして24年に姉も亡くなりましたから、この時期の数年間は介護に明け暮れる毎日だったのです。ただ思い起こすと、この家族への介護を一生懸命にしていた事が、自分の病気回復のリハビリになっていたんですね。今はそんな風に思えます。当時は老人介護の制度も今のような仕組みじゃなくて、3ヶ月毎に病院を転院させられ、入院先の病院を探さなきゃいけなかった・・。これが結構大変でね、毎日忙しくしている内に、お蔭様で自分の病気を考えている暇もなく、乗り越えることが出来たと思っているんですよ。
姉妹の遺品整理や書類整理に追われている頃に、こちらのホームの本部長さんがお見えになってね、「ここに入らないか? 」って尋ねて来てくださったんです。なんでもこちらのホームは郵政省の推薦があったとかでお話しに来られたんです。去年の3月に入居したんですが、選択は間違えてなかったと確信してますよ。
実はね、ここに来てから始めたことがあるんですよ。白状しちゃいますけどね、株を始めたんです。郵政省の頃は数字が好きで統計の業務なんかもやっていたんで、それでボケない為にも始めたんですが、数値を追いながら予想したりするのは得意なんです。脳トレにもなりますしね。
最初は日経新聞を読むことから始めたんですが、新聞を深読みしていくと世の中の事が分かってきて、これがまた面白いんです。記事を読みながら企業の株価の動向を予想しますでしょ、これが的中するともっと面白くなり、日本の経済が良く分かってきました。そうですね、攻めの経営をしている企業は伸びしろがまだまだありますね。ボヤっと新聞を読んでいるだけでは分かりませんが、研究していくと世界の中の日本も見えてくるんですよ。ちょっとした発見ですよね。ソニーの最新式一眼レフカメラとか富士フィルムの医療機器の情報なんかを知ると、日本企業もまだまだ世界で勝負できると思いますね・・。
身内の介護の経験から思うんですが、やはり最後まで自分の足で歩きたいし、人の世話にはなりたくないですよね。だからテレビ体操を始めました。大声を出して号令を掛ける役目もしています。こういう体操は、一人より二人、二人より三人と大勢で共通の感覚を持って行う方が楽しいし、効果があると思います。スポーツは柔道から始めて、球技はほとんどやりました。野球・卓球・バレーボール、卓球の腕前は一流選手と組んでかなりの所までいきました。
ただ、お金が無くてゴルフだけはできなかった・・。残念・・。